麻生副総理の笑顔で釣られ笑いするアルバムブログ


by floppy_smile

もっと静かに祈る場所

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7月15日、首相官邸にて。(Reuters)
――総理、朝日新聞です。15日の終戦の日に、総理は靖国神社に参拝するおつもりですか?

靖国の話についてはおたくの新聞に投稿したことがある。(註:2006年)読んだことがありますか?

――(肯定の答えをかえしたらしい?)

じゃあ、それが答えです。

――(別の記者)総理。

あなたの質問より、こっち(朝日新聞を指して)、まだ不満のようだから。読んでないみたいだから。

――15日以外の日についても同様に、お考えについては。

読んだ、あの記事を読んだうえでその質問をしておられるんですか? あれに書いたと思いますけどね。そのうえで、みなさんに分からせようと思って、聞いておられるというように理解する、好意的に理解するとそういうことかしら。

僕は靖国というものは、少なくとも、国家のために尊い命を捧げた人たちを、政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは間違ってると思ってます。あれは最も、政治とかそういったマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきもんですよ。もっと静かに祈る場所だと。それが答えです。

日テレ24/総理大臣きょうの一言 8月10日(動画)
静かで、強い語気に思えました。

靖国に弥栄(いやさか)あれ 
                                麻 生  太 郎

【靖国神社についての私見です。なお、新聞投稿もこの文章も、外務省や、外務大臣としての立場とはなんの関係もありません】


1. 常に根と幹を忘れずに
 
 靖国神社に関わる議論が盛んです。特定の人物を挙げ、「分祀」の必要を言う人があります。国会議員にそれを主張する人が少なくありません。わたしに言わせれば、これは根や幹から問題を見ようとしない、倒錯した発想によるものです。  
 わたしは靖国神社についてものを言う場合、常に物事の本質、原点を忘れぬよう心がけて参りました。  
 それでは靖国問題で発言しようとするとき、忘れてならない根と幹とは、何でしょうか。  
 大事な順番に、箇条書きにしてみます。
              
(1) 靖国神社が、やかましい議論の対象になったり、いわんや政治的取引材料になったりすることは、絶対にあってはならないことです。靖国は、戦いに命を投げ出した尊い御霊とご遺族にとって、とこしえの安息の場所です。厳(おごそ)かで静かな、安らぎの杜(もり)です。そのような場所で、靖国はあらねばなりません。  
 いかにすれば靖国を慰霊と安息の場とし、静謐(せいひつ)な祈りの場所として、保っていくことができるか。言い換えれば、時の政治から、無限に遠ざけておくことができるか――。  
 靖国にまつわるすべての議論は、いつもこの原点から出発するものでなければならないと考えます。論議が紛糾したり、立場の違いが鋭く露呈したような場合には、常にこの原点に立ち戻って考え直さなくてはなりません。

(2) 靖国神社にとって、「代替施設」はあり得ません。  
このことは、靖国に「ないもの」と「あるもの」を考えることで、理解することができます。靖国には、遺灰とか遺骨といった、物理的な何かはありません。あるのは御霊という、スピリチュアルな、抽象的なものです。いやもっと言うと、そういうものが靖国にあるのだと思ってずっと生きてきた、日本人の「集合的記憶」です。  
記憶には、誇るべきものがある半面、胸を張れないものもあることでしょう。しかし死者にまつわるものであるからには、総じて辛い、哀しいものです。それらすべて、一切合財を含む記憶の集積を、明治以来日本人は、靖国に見出してきました。これは引っこ抜いてよそへ持って行ったり、新しい場所に「存在するつもり」にしたりできないものです。つまり靖国には、代替施設はつくれません。  
高浜虚子の有名な句に「去年今年 貫く棒の 如きもの」があります。この句に言う「棒の 如きもの」が、靖国にはあるのだと思っています。これを無くしたり、むげにしていると、ちょうど記憶を喪失した人が自分とは何者か分からなくなってしまうのと同じように、日本という国が、自分を見失い、碇を無くした船さながら、漂流してしまうと思います。

(3) 上の(1)と(2)の土台にあるのは、国家のために尊い命を投げ出した人々に対し、国家は最高の栄誉をもって祀らねばならない、という普遍的な原則です。「普遍的な」というのは、これが国と国民の約束事として、世界中どこででも認められていることだからです。
 国家とは、国民を戦場へ連れ出し、命を投げ出させる権力をもつ存在でした。だとすれば、国家の命に応じてかけがえのない命を捧げた人を、当の国家が最高の栄誉をもって祀らなければならないのは、最低限の約束事であり、自明の理です。戦後のわれわれには、この当たり前の理屈がピンと来なくなっているかもしれません。何度でも強調しないといけないゆえんです。

(4) 「天皇陛下、万歳」と叫んで死んだ幾万の将兵は、その言葉に万感の思いを託したことでしょう。天皇陛下の名にこと寄せつつ、実際には故郷の山河を思い起こし、妻や子を、親や兄弟を思っていたかもしれません。しかし確かなこととして、明治以来の日本人には、上の(3)で言った国家との約束事を、天皇陛下との約束として理解し、戦場で死に就いてきた経緯があります。  
ですからわたしは、靖国に天皇陛下のご親拝あれかしと、強く念じているのです。

麻生太郎オフィシャルサイト/2006年8月8日 靖国に弥栄(いやさか)あれ 一段抜粋


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(c) 木村 感知写真素材 PIXTA



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by floppy_smile | 2009-08-10 23:53 | 首都で